働いたら、負けだった。第2話



「とりあえず、ビールでいいですか?」

会社を出たのは、まだ21時を回ったばかりだった。

それでも、気分はもう終電一本前。

電池の切れかけた体を引きずって、足が勝手に、いつもの角を曲がる。

駅から5分。看板が消えかけた、小さな居酒屋「たぬき」。

扉を開けると、湯気と油と、すこし焦げた匂いが迎えてくれる。

「……あら。お久しぶりじゃない?」

カウンター奥から、女将の杉本さんが顔を出した。

白髪まじりの髪をまとめ、手には皿を持っている。

声は明るいが、目だけがほんの少し心配そうだった。

「とりあえず、ビールでいいですか」

「いいよ、冷えてるの。今日は疲れてそうだね」

ジョッキが、カウンターに「コトッ」と置かれる。

泡の層がゆっくり落ち着くのを見つめながら、言葉が喉につかえていた。

今日、俺は辞めると決めた。

でも、それはまだ誰にも言っていない。

封筒に文字すら書いていない。

だからまだ、口に出したら壊れてしまいそうだった。

「……誕生日だったんですよ、今日」

ぽつりと漏らした言葉に、杉本さんが手を止めた。

「え、今日? それは、おめでとう」

「ありがとうございます。……誰にも言われてなかったんで、今日、初めてです」

軽く笑ってみせた。

杉本さんは、黙って厨房の方へ引っ込んだ。

少しして戻ってくると、小さなプリンがのった小皿を出してきた。

スーパーで売っている、どこにでもあるやつ。

だけど、ロウソクが一本だけ、刺さっていた。

「35歳、おめでとう。火は、つけない方がいいでしょ?」

「……はい。それでいいです」

俺は、火のないロウソクに頭を下げた。

「仕事、大変?」

「……たぶん、もう終わりです」

「そっか」

それだけで、杉本さんは何も聞いてこなかった。

プリンの甘さが舌に広がる。

缶詰のような、どうしようもない味が、なぜか今は涙が出そうなほど優しかった。

「なんか……うまいですね」

「でしょ。35にもなれば、甘いものの味も沁みるのよ」

グラスが空になった。

時計を見ると、まだ22時前だった。

普段なら、社に残っていた時間。

でも今日は、風の音すらちゃんと聞こえる。

明日は、辞表を書く。

明後日、出す。

来週には、何もかも変わってる。

だけど今だけは、何も考えずに座っていてもいい気がした。

この時間、この席、このジョッキ。

それが“自分の場所”だと思えたのは、いつぶりだろう。

誰にも祝われない誕生日の夜に、

はじめて自分を“祝う”ことを覚えた。


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