「辞表の出し方、なんて誰も教えてくれなかった」
翌朝、会社に着いたのはいつもより少しだけ早かった。
5分でも10分でもいい。誰もいないフロアを見ておきたかった。
退職願は、白い封筒に入れてバッグの内ポケットに突っ込んだ。
文字にしてみても、不思議と実感はなかった。
これは夢か、それとも逃避か。自分でもよく分からないままだった。
パソコンの電源を入れる。メールを開く。
つまらないルーティンをなぞる指の動きが、妙に機械的だった。
俺の席の隣では、後輩の林があくびをしている。
向かいでは、経理の佐伯がコーヒーのふたを開けながらExcelを開いていた。
――この人たちは、明日もここに座っている。
だけど俺は、違う。
9時15分。
いつも通り遅れて、伊藤がやってきた。
Yシャツのボタンは上まで留まっておらず、髪も少し跳ねていた。
寝癖をそのまま出社してくるところが、あの人らしい。
「おはようございます」
先に言ったのは俺だった。
伊藤は曖昧なうなずきで返し、缶コーヒーを机に置いた。
言おう。
今日しかない。
今、逃したら、また何週間も言い出せない。
「伊藤さん。少し、お時間よろしいですか」
「ん? あぁ、どうした」
珍しく、ちゃんと目が合った。
その目に、一瞬の警戒心が浮かんだ気がした。
俺は立ち上がり、封筒をバッグから取り出した。
伊藤の前にそっと置く。
「……退職願です。お世話になりました」
声は、思っていたよりも冷静だった。
怒りも悲しみもなく、ただ決めたことを実行した、そんな感覚だった。
伊藤は封筒を見たまま、一拍だけ沈黙した。
それから、少し鼻で笑って言った。
「マジで? お前、何か不満でもあった?」
「いえ、特には。いろいろと、ありがとうございました」
心の中では、何十通りもの返しを考えていた。
「あなたに壊されたようなものです」とか、
「誕生日、誰にも祝われませんでしたよ」とか。
でも言葉は出なかった。
もう、この人に何を言っても意味がないと、どこかで知っていた。
伊藤は肩をすくめるように言った。
「まぁ……そうか。俺としては残念だけど。ま、好きにすればいいよ」
その言い方も、想定の範囲だった。
ここは、辞める人間に優しくない会社だ。
誰も、本当に引き留めない。
見送ることも、振り返ることも、しない。
俺は頭を下げて、自分の席に戻った。
モニターの画面が、やけに眩しかった。
いつもと同じ画面。
だけど、見え方が違った。
今日が、最後の月曜日になるかもしれない。
そう思うと、少しだけ呼吸が深くなった。
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