働いたら、負けだった。第3話

「辞表の出し方、なんて誰も教えてくれなかった」

翌朝、会社に着いたのはいつもより少しだけ早かった。

5分でも10分でもいい。誰もいないフロアを見ておきたかった。

退職願は、白い封筒に入れてバッグの内ポケットに突っ込んだ。

文字にしてみても、不思議と実感はなかった。

これは夢か、それとも逃避か。自分でもよく分からないままだった。

パソコンの電源を入れる。メールを開く。

つまらないルーティンをなぞる指の動きが、妙に機械的だった。

俺の席の隣では、後輩の林があくびをしている。

向かいでは、経理の佐伯がコーヒーのふたを開けながらExcelを開いていた。

――この人たちは、明日もここに座っている。

だけど俺は、違う。

9時15分。

いつも通り遅れて、伊藤がやってきた。

Yシャツのボタンは上まで留まっておらず、髪も少し跳ねていた。

寝癖をそのまま出社してくるところが、あの人らしい。

「おはようございます」

先に言ったのは俺だった。

伊藤は曖昧なうなずきで返し、缶コーヒーを机に置いた。

言おう。

今日しかない。

今、逃したら、また何週間も言い出せない。

「伊藤さん。少し、お時間よろしいですか」

「ん? あぁ、どうした」

珍しく、ちゃんと目が合った。

その目に、一瞬の警戒心が浮かんだ気がした。

俺は立ち上がり、封筒をバッグから取り出した。

伊藤の前にそっと置く。

「……退職願です。お世話になりました」

声は、思っていたよりも冷静だった。

怒りも悲しみもなく、ただ決めたことを実行した、そんな感覚だった。

伊藤は封筒を見たまま、一拍だけ沈黙した。

それから、少し鼻で笑って言った。

「マジで? お前、何か不満でもあった?」

「いえ、特には。いろいろと、ありがとうございました」

心の中では、何十通りもの返しを考えていた。

「あなたに壊されたようなものです」とか、

「誕生日、誰にも祝われませんでしたよ」とか。

でも言葉は出なかった。

もう、この人に何を言っても意味がないと、どこかで知っていた。

伊藤は肩をすくめるように言った。

「まぁ……そうか。俺としては残念だけど。ま、好きにすればいいよ」

その言い方も、想定の範囲だった。

ここは、辞める人間に優しくない会社だ。

誰も、本当に引き留めない。

見送ることも、振り返ることも、しない。

俺は頭を下げて、自分の席に戻った。

モニターの画面が、やけに眩しかった。

いつもと同じ画面。

だけど、見え方が違った。

今日が、最後の月曜日になるかもしれない。

そう思うと、少しだけ呼吸が深くなった。


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