朝六時、目覚ましより先に目が覚めた。外はまだ暗い。窓の外から車の音が一台だけ聞こえた。台所で湯を沸かし、同じマグカップに同じ量の水を入れる。平日はいつもこうだ。
机の上には昨日の資料がそのまま置いてある。赤線が引かれた紙を一枚めくり、元に戻した。読む気にはならなかった。代わりに、引き出しの奥から古い封筒を出す。十年前、自分で自分に宛てて書いた手紙だった。
内容は覚えていない。ただ、なぜか捨てずに持っていた。封を切り、紙を広げる。文字は今より丸く、行間が広い。「三十代の終わりに、まだここにいるなら、理由を言えるようにしておけ」と書いてあった。それだけだった。
時計を見る。出勤まで四十分ある。もう一度、資料に目を落とす。赤線の意味は理解できる。正しい指摘だとも思う。それでも、これを直した先の景色は浮かばなかった。
玄関で靴を履き、鍵を持つ。鍵を閉める直前、部屋を振り返る。特別なものは何もない。だが、戻ってくる前提で置かれている物ばかりだった。
駅までの道を歩く。信号で止まり、スマートフォンを開く。未読の通知はない。ポケットに戻し、封筒の感触を確かめる。今日は持っていくことにした。
電車が来る。乗り込む直前、手紙を折り直して鞄に入れる。理由はまだ言葉にならない。ただ、考える時間を先延ばしにしないことだけは決めた。
電車の扉が閉まる。次の駅までの三分間、何もせず立っていた。
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