坂の途中
坂の下から見上げた空は、どこまでも白く、乾いていた。
冬の陽は午後を少し過ぎたばかりなのに、すでに西へ傾き始めている。
風はなかった。
だが、あまりに静かすぎるその空気の中には、風の抜けたあとの余韻のようなものが確かにあった。
石畳の坂道を、キャリーバッグの車輪が小さく転がっていく。
ガタン、ガタン、とリズムのない音を立てて、段差やヒビ割れに引っかかるたびに腕がわずかに揺れる。
通りには人影がなかった。
アーケードの骨組みだけが空に突き出していて、色褪せた看板がかろうじて「風町商店街」と読めた。
アクリルの屋根はところどころ割れ、錆びた鉄骨には細い蔦が巻きついていた。
シャッターの下りた店が並ぶ。
かつて果物屋だったらしい軒先には、もう籠も台もない。
時計店の古い柱時計が、埃の積もったガラスの向こうに沈黙している。
通り全体が、何かに封じ込められたように、静止していた。
白石直哉は、坂の途中で一度立ち止まった。
額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、見上げた先に懐かしい景色を見た気がして、目を細める。
そこには、小さな文具店があった。
引き戸の硝子はところどころ曇り、ポスターは日焼けしている。
「しらいし文具店」――昔から変わらぬ、手描きの文字の看板。
シャッターは半分だけ開いていた。
中は暗く、誰の気配もなかった。
直哉は、引き戸に手をかけた。
冷たい金属の感触が指先をすぐに離れさせたが、今さら躊躇する理由もない。
ゆっくりと押すと、古びたベルが、ひとつだけ鈍い音を立てた。
「……直哉かい?」
奥から声がした。
簾の奥から、ひとりの小柄な老女が現れた。
背は丸く、白髪をひとつに束ね、淡いグレーのカーディガンを羽織っている。
祖母の白石初枝だった。
「よう来たね」
それだけを言って、彼女は穏やかに笑った。
その笑顔を見て、ようやく直哉は鞄の取っ手を手放した。
* * *
その朝、初枝は帳面をつけていた。
湯呑に湯を注ぎ、脇に置いたまま冷めるのも気にせず、数字を一つひとつ書き込んでいく。
売り上げは、ゼロの日が続いていた。
ラジオの音は消してある。
町は静かだった。
朝市もとっくに終わり、商店街にはもう誰もいない。
「風が吹かんなあ……」
独り言のようにつぶやいて、机の引き出しをそっと開ける。
中には古びた手紙の束。
数ヶ月前に届いた一通の封筒の表に、見慣れた名前が書かれていた。
「白石直哉 様」
その字を、指でなぞる。
あの子が戻ってくるとは思っていなかった。
でも、いつか――そう、いつかはきっと。
* * *
文具店の奥は、そのまま祖母の住まいになっていた。
畳の部屋、低いちゃぶ台、使い古された急須。
冬の光は西側の窓から斜めに差し込み、埃が光の中で舞っている。
直哉は黙ったまま茶をすすった。
祖母も言葉を選ぶように、何も言わない。
沈黙は重くなかった。だが、軽くもなかった。
「仕事は、大丈夫ね?」
それだけを訊かれ、直哉は曖昧に頷いた。
祖母はそれ以上、何も訊かなかった。
押し入れには、古いスケッチブックが残っていた。
小学二年のとき、母と一緒に描いた「風町商店街の地図」が、ページの隅にあった。
色鉛筆の色は褪せ、紙の端は少し黄ばんでいた。
直哉は、その上に手を置いてみた。
温度はなかった。ただ、懐かしさだけがあった。
* * *
夜になり、通りはさらに静かになった。
坂道には灯が一つだけ灯っている。
遠く、海のほうから船の汽笛がかすかに聞こえた。
二階の布団に入っても、眠気はすぐには来なかった。
天井の木目をぼんやりと見つめ、窓の外の光の揺らぎに目を細める。
――なあ、かあさん。
あの坂、覚えちょる?
石段の途中で転びそうになったとき、
母の手がすぐに伸びて、直哉の腕を掴んだ。
その手の温かさと力強さだけが、今もはっきり残っていた。
* * *
翌朝、通りには新聞配達の自転車がひとつ、ゆっくりと坂を下っていった。
その音が遠ざかると、また静寂が戻ってくる。
店のシャッターを開ける祖母の手は、少しだけ震えていた。
金属の擦れる音が、商店街の朝の空気をわずかに揺らす。
「もう、店ば閉めようと思うとよ」
カウンターの奥で、帳面を閉じながら祖母がぽつりと言った。
「風町は、風の吹かん町になってしもうた」
言葉の意味は、すぐには飲み込めなかった。
ただ、その声の奥に何かが滲んでいた。
引き戸のガラス越し、坂の向こうに影が一つ現れる。
フードをかぶった誰かが、ゆっくりと歩いてくる。
直哉はふと立ち上がり、戸のほうを見た。
その先に誰がいるのかは、まだ見えなかった。
(第一話・了)
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