「とりあえず、ビールでいいですか?」
会社を出たのは、まだ21時を回ったばかりだった。
それでも、気分はもう終電一本前。
電池の切れかけた体を引きずって、足が勝手に、いつもの角を曲がる。
駅から5分。看板が消えかけた、小さな居酒屋「たぬき」。
扉を開けると、湯気と油と、すこし焦げた匂いが迎えてくれる。
「……あら。お久しぶりじゃない?」
カウンター奥から、女将の杉本さんが顔を出した。
白髪まじりの髪をまとめ、手には皿を持っている。
声は明るいが、目だけがほんの少し心配そうだった。
「とりあえず、ビールでいいですか」
「いいよ、冷えてるの。今日は疲れてそうだね」
ジョッキが、カウンターに「コトッ」と置かれる。
泡の層がゆっくり落ち着くのを見つめながら、言葉が喉につかえていた。
今日、俺は辞めると決めた。
でも、それはまだ誰にも言っていない。
封筒に文字すら書いていない。
だからまだ、口に出したら壊れてしまいそうだった。
「……誕生日だったんですよ、今日」
ぽつりと漏らした言葉に、杉本さんが手を止めた。
「え、今日? それは、おめでとう」
「ありがとうございます。……誰にも言われてなかったんで、今日、初めてです」
軽く笑ってみせた。
杉本さんは、黙って厨房の方へ引っ込んだ。
少しして戻ってくると、小さなプリンがのった小皿を出してきた。
スーパーで売っている、どこにでもあるやつ。
だけど、ロウソクが一本だけ、刺さっていた。
「35歳、おめでとう。火は、つけない方がいいでしょ?」
「……はい。それでいいです」
俺は、火のないロウソクに頭を下げた。
「仕事、大変?」
「……たぶん、もう終わりです」
「そっか」
それだけで、杉本さんは何も聞いてこなかった。
プリンの甘さが舌に広がる。
缶詰のような、どうしようもない味が、なぜか今は涙が出そうなほど優しかった。
「なんか……うまいですね」
「でしょ。35にもなれば、甘いものの味も沁みるのよ」
グラスが空になった。
時計を見ると、まだ22時前だった。
普段なら、社に残っていた時間。
でも今日は、風の音すらちゃんと聞こえる。
明日は、辞表を書く。
明後日、出す。
来週には、何もかも変わってる。
だけど今だけは、何も考えずに座っていてもいい気がした。
この時間、この席、このジョッキ。
それが“自分の場所”だと思えたのは、いつぶりだろう。
誰にも祝われない誕生日の夜に、
はじめて自分を“祝う”ことを覚えた。
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