風の戻る場所 ~第二話~

風のない商店街

 

 風町の朝は、驚くほど静かだった。

 坂の中腹、石畳の通り沿いにある文具店の引き戸の前で、白石直哉はコーヒーの湯気を手に受けながら、路地を見下ろしていた。

 かつては通学路として子どもたちの笑い声が飛び交い、朝早くからパン屋の甘い匂いが風に乗って届いていたというのに、今は人の気配がまるでない。

 猫の一匹も現れない通りには、少し前の夜に降った雨の名残が薄く残っていて、街灯の足元の舗装がまだ黒く湿っている。

 朝日がゆっくりと昇ってきてはいるが、その光も、シャッターが降りた商店の列に阻まれ、地面までは届かない。

 

 「……変わらないな」

 

 直哉が小さくつぶやいた声に、文具店の奥から紙の擦れる音が応えた。

 帳面を閉じる音とともに、祖母の初枝が姿を現す。

 

 「なんも変わらんよ。この十年、誰もここを動かしきらんかったけんね」

 

 初枝はエプロン姿のまま、湯呑を手に窓の外を見た。

 小柄で、髪はすでに真っ白だが、背筋はまっすぐだった。

 

 「このあたり、全部閉めとると。あの魚屋も……」

 

 「中野さんのとこね? ……二年前に。息子さんが都会で就職して、戻ってこんてさ。

 まあ、しょうがなか。若か人間がおらん町は、終わるとよ」

 

 初枝の言葉は、静かで、そしてどこか達観していた。

 怒りも焦りも、すでに通り過ぎたあとの残響のように聞こえた。

 

 「じゃあ、今、この通りで開けとるのは……うちだけ?」

 

 「隣の時計屋さんが週に一回開けるくらいかね。

 あそこはもう、半分倉庫やけん。商売はしてなか」

 

 静けさは、ただ静けさとしてそこにあるわけではない。

 それは、何も生まれず、何も続かず、ただ“かつてあったもの”の輪郭だけを残している時間だった。

 

 「……俺、やっぱりちょっと、見て回ってくるよ。坂の上まで」

 

 湯呑を下げ、マフラーを巻き直して、店を出る。

 坂道に足を踏み出すと、冬の空気が肌を刺すように冷たかった。

 

 歩きながら、直哉は一軒一軒のシャッターを眺めた。

 それぞれにかつての看板が残っている。「花いち」「すが薬局」「おでん処ふうりん」「かねひら靴店」……どこも扉を閉ざしたまま、風化していく。

 足元の石畳には小さなひび割れが増えていた。手入れされない植木鉢。曲がったポール。外されたままの掲示板。

 ここには、止まった時間が、静かに降り積もっている。

 

 

*  *  *

 

 坂を登り切った先の、かつて「駅前通り」と呼ばれていた広場のあたり。

 そこに見慣れた人影が立っていた。

 

 「やっぱおったな。背中で分かったぞ」

 

 声がする前から、誰かが近づいてくる気配はあった。

 黒いロングコートを揺らしながら、肩幅の広い男がこちらへ歩いてくる。

 

 三枝正志――直哉の中学時代の同級生だった。

 

 「お前、ずっとあっちにおるもんかと思うとった。まさか帰ってくるとはな」

 「……偶然、じゃないんだけど。ちょっといろいろあってさ」

 

 三枝は手をポケットに突っ込んだまま、しばらく何も言わず、通りの下の方を見下ろした。

 海まで見渡せるその景色は、町の“顔”だった。かつては、ここから活気の波が商店街へと流れていったのだ。

 

 「なあ、ちょっと真面目な話していい?」

 「うん」

 

 三枝はゆっくりと口を開いた。

 

 「俺な、今、“風町まちづくり連携協議会”ってのに入っとるんよ。名前だけ聞いたら大げさやけど、実際はただの民間の連携団体。予算も人もない。やる気だけの集まりや」

 「それでも、一年かけて動いとる。商店街ば、もう一回なんとかしようって」

 

 直哉は、立ち止まっていた足をゆっくりと動かし、三枝の隣に並んだ。

 二人の目線の先には、すべてのシャッターが閉まったままの通り。

 

 「この町に必要なのは“風”やけん。空気が動かん町は死ぬ」

 「だからさ。……お前、力貸してくれんか?」

 

 「俺にできるのか、そんなこと」

 

 三枝は言葉を選ばずに言った。

 

 「お前さ、都市デザインやっとったやろ? “場”を作る勉強。人が居たくなる場所を設計するって話、あれ、本気やったんやろ?」

 「……大学で卒論書いただけだよ」

 「でも、あの卒論、読んだぞ」

 

 直哉は驚いて顔を向ける。

 

 「あの卒論って……なんで?」

 「俺の妹が、同じゼミにおったっちゃ。お前のこと、卒業前に話してくれてな」

 「風をデザインする町づくり、みたいなタイトルやったっけ。覚えとるぞ」

 

 笑いながら言う三枝の声は軽いが、どこか熱を含んでいた。

 

 「今、この町は完全に“風”を失っとる。けど、俺はまだ信じとる。

 風が戻ってくる場所ってあるって。……それが、ここやと思っとるとよ」

 

 

*  *  *

 

 その夜、直哉は文具店の二階の和室に座り、押し入れから出してきた古いスケッチブックを開いていた。

 大学時代、卒論の前に描いたラフ図。坂道の構造、商店街の構成、通風の流れ、日当たりのグリッド……それらを重ねて描いたページが、まだ残っていた。

 

 線は赤鉛筆で引かれていた。

 指でなぞると、過去の自分が何を考えていたのか、ぼんやりと思い出される。

 

 祖母の声が、階下から聞こえた。

 

 「正志くんはえらかね。昔はやんちゃやったのに、今じゃ町を動かす人になっとる」

 

 「……俺はまだ、動けないかもしれない」

 

 「けど、帰ってきたってことは、もう半分は動いとるとよ。

 風の止んだ場所に、自分の足で戻ってきたっちゃろ? それが、なにより大事なんよ」

 

 その言葉に、直哉は答えず、再びスケッチブックを見つめた。

 薄い紙の向こうに、風町の未来が透けて見える気がした。

 

 この町で、もう一度、風を呼ぶことができるのか。

 それとも、それはただの幻想か。

 

 指の先が、赤い線をなぞる。

 

 「……風は、戻ってくるのかな」

 

 そうつぶやいたその瞬間、窓の外で、風鈴が小さく鳴った。

 誰も触れていないのに、ひとつだけ、音を残して静かに揺れていた。


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